にポインタを置くと、補足説明がでます。
| 戦国時代に終止符を打つべく、天下統一事業に乗り出した織田信長。その既成概念にとらわれない合理的な政治・人材登用術・経済政策は、この時代において新しい波を起こし、斬新な行動力は、なみいる大名の中でもひときわ異彩を放っていた。しかしその時代を先取りした政策は、既存の保守派大名からの反感を買うことも多く、四方を敵に囲まれたこともある。そのような時においても常に自身の感覚を信じ、なかば冷酷ともいわれる合理主義は、たしかに次の時代への重要なうねりを生み出した。 情報収集だけはきちんとやろうと思った 「とにかく人と同じことをするのが嫌だったんだよ。ガキの頃にアホウだアホウだっていわれたけど、全然気にならなかった。お前らみんなアリンコだって。いつかほえ面かかせてやるって思ってた。こじんまりとまとまってたら、大きなことなんてできないじゃない? だとしら、まわりと同じことしてちゃダメ。でもオヤジ(信秀)が死んだときに、抹香を投げつけたのは、さすがにやりすぎたって反省した(笑)」 信長の少年時代のうつけ(阿呆)ぶりは有名である。ただその常軌を逸した行動 「あの時はもう、一か八かの大博打だな。普通に考えても勝てるわけないじゃん、兵力においても物資においてもさ。10回戦争したって、9回は負けるよ、間違いなく。たまたま奇跡の1回が最初にきただけ(笑) あいつらしぶといからさ 義元を破ると、信長は当時の室町幕府の将軍である足利義昭 「たしかに長政が裏切るのは予想外だった。妹婿ってことで、信頼していたからな。朝倉義景 信長の対抗勢力に対する仕打ちは苛烈を極める。浅井・朝倉に協力した延暦寺は焼き討ちにした。この焼き討ちでは、叡山にいた僧俗男女3000〜4000人を皆殺しにした 「信玄のオッサンは怖かったなあ。唯一恐怖を感じた男だね。政治じゃ負ける気はしなかったけど、なにせハンパなくケンカが強い
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利用できるうちは利用してやれ 織田・徳川連合軍は、中央の川の左手に馬防柵をもうけ、3000挺(ちょう)の鉄砲隊をならべた。武田軍は川と馬防柵のために得意な騎馬戦でたたかえず、鉄砲隊の一斉射撃をうけてやぶれた。このとき鉄砲隊を3列に分け、射撃・弾込め・待機のルーチンで絶え間なく発砲したのは有名な話だ。その後信長は安土に居を構え 「うん、この頃からは戦争よりも政治活動のほうがウェイトが大きかったな。版図が拡がってくると、なんでもかんでも自分でやることに限界を感じてきたのは確かだわな。だから各方面の軍団長を選んで、政治も軍事も基本的にそいつらの裁量に任せることにした。実際サルや光秀
信長に過去の権威は通用しない。事実、信長は正二位右大臣までのぼったが、1578年にすべての官職を辞退した。その後朝廷は信長に太政(だいじょう)大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命することを申し出たが、信長は返答を保留している。このことは来るべき信長政権が、既成政権を破壊し、まったく新しい体制づくりを目指していたととることもできよう。しかし彼は突然すぎる最後を迎える。1582年5月、中国地方(毛利)を攻めていた羽柴秀吉 「・・・まあ結果からいうと、ワシに油断があったということだな。光秀があんな大胆な行動をとる度胸があるとは、まったく想像しなかったからな。小姓から囲んだ旗が水色桔梗 戦国乱世を新しい価値観で駆けぬけた信長。死してなお、その強烈な意志・思想は大きな影響を歴史に残し、その後の日本を劇的に変えていく原動力になったことは間違いない。 (2004年10月10日) |
| オレと織田信長 Akira×Nobunaga
それだけに身辺で働く人は大変だったろうなあと、同情すらしてしまいます。オレが「株式会社 織田商事」に入社したとしても、すぐに逃げ出すでしょうね(笑)。あのプレッシャーの中じゃ身が持ちませんって。ただ信長の合理主義は、間違いなく日本の歴史を何十年か進めたと思いますよ。もし武田信玄あたりが天下をとったとしたら、もう少しゆっくりと歴史は進んだのではないでしょうか。そのくらい信長は革新的でした。残念ながら、まわりがそのスピードについていけないんですよ。速すぎて。とくに明智光秀なんかは、なまじ京都の政治を垣間見ていただけに保守的であり、そこら辺のトロさに信長はイライラさせられたんでしょうかね。 冷酷・冷徹といわれてはいますが、信長は秀吉とねねの夫婦喧嘩の仲裁をしたり(夫婦喧嘩あたりが秀吉っぽい・・・)、信忠・信雄兄弟を身辺で育てたりと、家庭的な一面ももっていたようです。というより、普段があれだから、ちょっとした暖か味がよけいに目立つんでしょうかね(笑)。 また、茶の湯に通じ、鷹狩や幸若舞(こうわかまい) |