にポインタを置くと、補足説明がでます。

 

戦国時代に終止符を打つべく、天下統一事業に乗り出した織田信長。その既成概念にとらわれない合理的な政治・人材登用術・経済政策は、この時代において新しい波を起こし、斬新な行動力は、なみいる大名の中でもひときわ異彩を放っていた。しかしその時代を先取りした政策は、既存の保守派大名からの反感を買うことも多く、四方を敵に囲まれたこともある。そのような時においても常に自身の感覚を信じ、なかば冷酷ともいわれる合理主義は、たしかに次の時代への重要なうねりを生み出した。

情報収集だけはきちんとやろうと思った

「とにかく人と同じことをするのが嫌だったんだよ。ガキの頃にアホウだアホウだっていわれたけど、全然気にならなかった。お前らみんなアリンコだって。いつかほえ面かかせてやるって思ってた。こじんまりとまとまってたら、大きなことなんてできないじゃない? だとしら、まわりと同じことしてちゃダメ。でもオヤジ(信秀)が死んだときに、抹香を投げつけたのは、さすがにやりすぎたって反省した(笑)」

信長の少年時代のうつけ(阿呆)ぶりは有名である。ただその常軌を逸した行動当時奇抜なファッションをして街を歩く、傾奇者(かぶきもの)といわれる若者がいた。おそらくそれらの一種。は、周りの目を欺くため演技だったとの説もある。織田家の跡取りは阿呆だということで、近隣の大名を油断させたわけだ。現に信長の舅となった斎藤道三美濃(岐阜県あたり)の大名。油売りから大名になった、典型的な下克上武将。は、正装した信長を見て自身の娘を嫁がせることを決めた。しかし、その信長に最初の危機が訪れる。東国の雄、今川義元駿河(静岡県)の大名。「東海一の弓取り」といわれるほど実力があった。の上洛軍勢を引き連れて京都に上ること。当時は京都が政治の中心地であり、ここから天下に号令していた。信長の領地は義元が上洛する上での通り道であり、侵略はまぬがれなかった。である。

「あの時はもう、一か八かの大博打だな。普通に考えても勝てるわけないじゃん、兵力においても物資においてもさ。10回戦争したって、9回は負けるよ、間違いなく。たまたま奇跡の1回が最初にきただけ(笑)マンガ「SLAM DUNK」よりの流用か?。でもこっちだって手をこまねいていたわけじゃなくて、情報収集だけはきちんとやろうと。だから義元の本陣の位置は常に把握するようにしていた。幸い天候が悪かった当日は雨が降っていた。のと、今川陣営の慢心が重なったので、見事義元の首をあげることができたんだけどな。この桶狭間からだよね、合戦においても、政治においても『情報』というものがいかに大切かってことがわかったのは」

あいつらしぶといからさ

義元を破ると、信長は当時の室町幕府の将軍である足利義昭足利15代将軍。一応当時の最高権力者という建前になっていた。を奉じて上洛。その勢力範囲を急スピードで飛躍的に拡大させる。しかし実質的な権力は信長が握っているため、将軍義昭との関係は悪化。義昭は信長の勢力拡大に危険を感じた近畿の戦国大名や比叡山、本願寺等の勢力と手を結び、信長包囲網この包囲網はなかなか強力で、浅井・朝倉・三好・毛利・本願寺・延暦寺とそうそうたるメンツであった。しかも甲斐の武田信玄まで加わっていたらしい。信長は桶狭間以来のピンチともいえた。を確立させる。その包囲網により、信長の妹婿であった浅井長政近江(滋賀県)の大名。昔からの縁故が強かった朝倉に加担した。浅井氏は滅んだが、その娘が強力。長女があの淀君で、次女が京極家に嫁ぎ、三女が徳川秀忠と結婚した。ですら信長を裏切ることになる。

「たしかに長政が裏切るのは予想外だった。妹婿ってことで、信頼していたからな。朝倉義景越前(福井県)の大名。姉川の合戦で信長に敗れる。一人相手ならたいしたことはなかったんだけど、長政が裏切ることで退路を断たれそうになったし、少し判断を誤れば危なかった。そのぶん殿(しんがり)退却時に、最後尾を担当すること。死ぬ確率がとても高い。を押し付けたサル(秀吉)ご存知豊臣秀吉。このころはまだまだ下ッ端だった。と家康徳川家康。当時は信長と同盟関係にあり、馬車馬のように働いていた。同盟じゃないね、ほとんど家来扱い。には悪いことしたかな。まああいつらしぶといから、なんとか切り抜けるだろ、とは思ってたんだけどね(笑)」

信長の対抗勢力に対する仕打ちは苛烈を極める。浅井・朝倉に協力した延暦寺は焼き討ちにした。この焼き討ちでは、叡山にいた僧俗男女3000〜4000人を皆殺しにした当時は迷信が通用していただけに、信長の仏罰を恐れない行動は、非常に珍しいものといわざるを得ない。という。こうして信長は抵抗勢力を潰していき、近畿での確固たる地盤を築いていくのである。しかしその信長が唯一恐れた男が上洛に動き始めた。甲斐(山梨県)の大名である武田信玄だ。

「信玄のオッサンは怖かったなあ。唯一恐怖を感じた男だね。政治じゃ負ける気はしなかったけど、なにせハンパなくケンカが強い武田の騎馬軍団は、当時最強といわれていた。だろ。あの騎馬軍団なんて、相手にするかと思うだけでもゾッとしたよ。家康がボロクソのケチョンケチョンにされたとき(1573年三方ヶ原の戦)家康がクソを漏らしながら逃げ帰ったことは有名である。まあそのくらい武田騎馬軍団というのは恐ろしかったということ。は正直どうするかと悩んだね。まあ運よく信玄が病気でおっちんでくれた信玄は上洛を目指していたが、三河の陣中で病にたおれ、甲斐へもどる途中、信濃駒場(長野県阿智村)で病没した。信長は命拾いしたといえよう。からさ。事なきを得たんだけど。でもそのとき考えたんだよ。当時最強といわれていた『武田騎馬軍団』の攻略法をね。それが長篠での鉄砲隊(1575年長篠の戦)この合戦で、武田軍は大敗北を喫する。その後信長・家康の追撃をうけ、1582年に甲斐の天目山で滅びた。なんだけど。ちょっとうまくいき過ぎだったな、ありゃ。ただ兵器の新旧交代をうながすムーブメントこの合戦を境に、鉄砲をつかった戦がポピュラーになっていく。にはなったと自負してるよ」


長篠の戦:左側が織田・徳川連合軍 右側が武田騎馬軍団

 
おだ・のぶなが
1534年尾張(愛知県)生まれ。1560年の『桶狭間の戦』で今川義元を破り、全国デビュー。その後室町幕府第15代将軍の足利義昭を招き、朝廷と幕府の権威を操りながら、実質的な権力を握る。主な政策に『楽市・楽座』『関所の廃止』などがあり、合理的な商品経済の基礎を作る。急速にその勢力を伸ばし、天下統一を間近にするも、1582年、京都の本能寺において配下武将の明智光秀の謀反にあい、自害。
http://www.tenka-fubu.com

利用できるうちは利用してやれ

織田・徳川連合軍は、中央の川の左手に馬防柵をもうけ、3000挺(ちょう)の鉄砲隊をならべた。武田軍は川と馬防柵のために得意な騎馬戦でたたかえず、鉄砲隊の一斉射撃をうけてやぶれた。このとき鉄砲隊を3列に分け、射撃・弾込め・待機のルーチンで絶え間なく発砲したのは有名な話だ。その後信長は安土に居を構え安土城のこと。安土城は従来の山城とはまったくことなった性格をもっている。それまで、城といえばただたんに外敵にそなえた防御のみを目的とするものであり、そのため高い山の頂きにつくられ、手狭で、きわめて居住性のわるい代物だった。しかし信長は、この安土城で史上はじめて天主(天守)閣をもうけ、7階からなる壮麗な天主の内部に、贅(ぜい)をこらした居室をしつらえた。、家臣団を各地の制圧に向かわせた北陸方面に柴田勝家、関東方面に滝川一益、山陰方面に明智光秀、中国方面に羽柴秀吉、対本願寺に佐久間信盛といった軍団長がいた。。信長は賞罰や規律にとても厳格であり使えない武将は即リストラされた。それは昔ながらの忠臣でも例外はなかった。林通勝しかり、佐久間信盛しかり。キビシい。、家臣団は信長の一声で飛び散るように命令に従ったようである。

「うん、この頃からは戦争よりも政治活動のほうがウェイトが大きかったな。版図が拡がってくると、なんでもかんでも自分でやることに限界を感じてきたのは確かだわな。だから各方面の軍団長を選んで、政治も軍事も基本的にそいつらの裁量に任せることにした。実際サルや光秀明智光秀。将軍の家来だったが、信長にスカウトされて中途入社。ハイスピードで出世したのだが・・・にはそれができる力はあったし、できないっていったって問答無用だから。できないじゃない、やれと(笑)。ワシ自身は朝廷を脅したり・・・じゃなくて(笑)、いろいろな便宜を図ってもらったり、これからの織田軍団がよりスムーズに活躍できるような場のマネジメントだね、うん。そんなことを主にしてた。朝廷なんて骨董品には興味がなかったけど、利用できるうちは利用してやれと。天下が手に入ったら潰しちまえって(笑)実際のところ、信長が朝廷を潰すつもりだったのか、生かすつもりだったのかは意見のわかれているところである。オレは潰すと思ったので、こう書きました。


安土城天守閣

信長に過去の権威は通用しない。事実、信長は正二位右大臣までのぼったが、1578年にすべての官職を辞退した。その後朝廷は信長に太政(だいじょう)大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任命することを申し出たが、信長は返答を保留している。このことは来るべき信長政権が、既成政権を破壊し、まったく新しい体制づくりを目指していたととることもできよう。しかし彼は突然すぎる最後を迎える。1582年5月、中国地方(毛利)を攻めていた羽柴秀吉このとき秀吉は備中(岡山県)高松城を攻めあぐねていた。を救援するべく家臣の明智光秀に中国出陣を命じ、6月みずから出陣する途中、京都の本能寺に宿泊した。しかし6月2日未明、信長は明智光秀に奇襲され、覇業半ばで自殺して果てたいわゆる本能寺の変。二条城にいた長男の信忠も死亡した。これにより歴史は大きな曲がり角を迎える。

「・・・まあ結果からいうと、ワシに油断があったということだな。光秀があんな大胆な行動をとる度胸があるとは、まったく想像しなかったからな。小姓から囲んだ旗が水色桔梗明智光秀の紋。と告げられたときは、しまった、というよりは、意外という言葉が頭に浮かんだしね。光秀がなんで謀反したか? う〜ん、それだけワシに追いつめられていたってことだったのかなあ。ヤツに辛くあたったという自覚は確かにあったし信長は光秀を衆目で罵倒することが多かった。本能寺の変の直前には、光秀の領地召し上げを行っている。、ヤツなら性格的に逆らえないという自信があった。それが読み違いだったということ。逆に言えば、それがワシの甘さであり油断だった。光秀の裏切りには諸説があるが、どれも憶測の域をでない。朝廷黒幕説、家康黒幕説、イエズス会黒幕説、秀吉黒幕説など。ここでは光秀ストレス説を採用した。で・・・その後は光秀が天下をとったの? え? 2週間でサルに倒された?山崎の合戦。予想以上に秀吉が早く駆けつけたので、光秀は十分な準備ができていなかった。頼りにしていた細川・筒井にも援助が得られず、敗走中に土民に刺されて死亡。最後までパッとしねえなあ、あいつは(笑)。その点サルは抜け目がないというか、あいつらしいよな。ま、それだけシビアな時代だったってことだわな」

戦国乱世を新しい価値観で駆けぬけた信長。死してなお、その強烈な意志・思想は大きな影響を歴史に残し、その後の日本を劇的に変えていく原動力になったことは間違いない。

(2004年10月10日)

 

オレと織田信長 Akira×Nobunaga

信長はそのドラマティックな生き様で、オレに強烈にインパクトを与えた人物でしたね。とにかく型破りなんですよ。すべてにおいてが。中世のこの時代に、ここまでシステマティックに行動できる人間が生まれたこと自体が、奇跡的ですらあります。合理性を追求しつくした感のある現代企業の経営陣でさえ、この徹底ぶりには敵わないのではないでしょうか。

それだけに身辺で働く人は大変だったろうなあと、同情すらしてしまいます。オレが「株式会社 織田商事」に入社したとしても、すぐに逃げ出すでしょうね(笑)。あのプレッシャーの中じゃ身が持ちませんって。ただ信長の合理主義は、間違いなく日本の歴史を何十年か進めたと思いますよ。もし武田信玄あたりが天下をとったとしたら、もう少しゆっくりと歴史は進んだのではないでしょうか。そのくらい信長は革新的でした。残念ながら、まわりがそのスピードについていけないんですよ。速すぎて。とくに明智光秀なんかは、なまじ京都の政治を垣間見ていただけに保守的であり、そこら辺のトロさに信長はイライラさせられたんでしょうかね。

冷酷・冷徹といわれてはいますが、信長は秀吉とねねの夫婦喧嘩の仲裁をしたり(夫婦喧嘩あたりが秀吉っぽい・・・)、信忠・信雄兄弟を身辺で育てたりと、家庭的な一面ももっていたようです。というより、普段があれだから、ちょっとした暖か味がよけいに目立つんでしょうかね(笑)。

また、茶の湯に通じ、鷹狩や幸若舞(こうわかまい)室町から江戸時代まで行われていた芸能の一つ。扇を持ち、太鼓の音に合わせて舞う。、相撲などを好み、西洋の美術品も貪欲に収集するなど、文化・芸術を奨励したことも、特筆すべき事項だと思いますね。

 

次(黒田孝高)にすすむ

歴史インタビュートップにもどる

オレ流作品集にもどる

トップにもどる